私はバングラデシュについてほとんど予習をせずに現地入りしました。
多少、翻訳のお仕事でバングラデシュに関するものがあったのでそれ自体が予習になっていたのですが、現地の生活習慣などは中部国際空港で購入した「地球の歩き方」だけが頼りでした。
言い訳ではないのですが、今回の旅行にお誘いいただいた方から、「事前の学習はいらない。行ってみればわかる。」という都合のよい言葉をいただいたので、行けばどうにでもなるな、と思って本当に何にも準備せずにおりました。
さてまず驚いたのが、交通状況。
首都ダッカには、信号機がほとんどありませんでした。
私たちはダッカの空港につくと、現地の方に車に乗せていただいていろいろな場所に案内していただきました。
道路にはバス、車、CNG(天然ガスで走る三輪自動車)、リキシャ (人力三輪車)、人が行き交います。
写真は、こちらをご覧下さい(Googleの「リキシャ」の画像検索結果です)。
信号機がないので当然クラクションが鳴りまくっているんですね。最初はクラクションを聞くだけでストレスを感じておりました。
人力車が車道を走り回っており、急に車の真ん前に出てきたりするので、すぐによける必要があるのです。
また車と車の距離、車と人との距離がやたら近くて(数十センチ)、これもはらはらドキドキでした。
さらに人が平気で道路を横切るのです。
車の陰からぱっと人が現れると、ものすごく緊張します。
あ、中央分離帯のある2車線の道路を逆走する車も当然ありましたよ(笑)。
あまりにもショックが大きくて、私は道路状況を眺める余裕を失うくらいでした。
映画のカーチェース並みの迫力です。なぜ交通事故が起こらないのか不思議でしょうがなかったです。
常時クラクションが鳴り続け、目の前に現れる人をよけつつ、いきなり車線変更する車に注意しながら車が走り続けるのです(信号機ないし)。
この感覚はどうにも説明のしようがないのですが、車に乗っていた仲間は最初騒ぎまくっていました。
でも、数日するとあまり驚かなくなってきました。
私の場合は、慣れと言うよりはあることに気がついたからでした。
私は、クラクションは「邪魔だどけ!」という怒りの合図ではなく、「ここを通っていますよ」という愛情表現(あいさつ)の1つだと感じたのです。
だから、クラクションを鳴らされる側も鳴らす側もいたって落ち着いていると思うのです。そこには殺気だったイライラ感はあまりないように感じました。
私が感じていたストレスは、日本でのクラクションとその背後にあるストレスを反射的に思い出していたのではないかなと思います。
あともう一つ。
路上を歩く人やリキシャをひく人が、クラクションを鳴らされても、車のほうを見たり振り向いたりしないんです。
で、車はその人達の数十センチ横を通過していくんです。
日本だったら少なくとも50センチくらい、私なら1メートルくらいは間隔をとって人との接触を避けますよね。ダッカではそれがないんです。
うまく表現できないのですが、歩行者が車を完全に信頼しているというか、よくあるクラクションなのでわざわざ振り返るのも面倒なのか、歩行者が車の方を振り向かないというのは不思議な光景だったのです。
で、私の解釈。
一見非常に危険な感じがするのですが、それでも日本にない心のゆとりを感じました。
私たちは整然とした社会に暮らしていて、相手も整然と振る舞うことを期待しており、その期待から少しでも外れるとストレスを感じてしまっているように思います。
日本の「整然・秩序」のレベルは非常に高いですよね。物理的な距離や配置の正確さであったり、時間の正確さであったり、様々な面で非常にレベルが高いです。
それに慣れきった私たちは、ちょっとしたカオス(?)に対して、何らかのストレスを感じてしまっているんじゃないでしょうか?
日本人の譲り合いの精神とはまた違うような気がしました。
日本にいたときには考えもしなかったのですが、この雑然とした交通状況をみて日本人の心のゆとりとは異なるバングラデシュ人の心のゆとりを感じてしまったわけです。
とは言うものの、この国で車の運転はしたくないですね。
あと、交通渋滞がよく起こるので、約束の時間に間に合わないことは日常茶飯事とのことみたいです。
事情がわかるので、お互いに打ち合わせなどの直前の時間変更ができるんですよね。